がれきはほとんど片づけられて、傾いた家々も取り壊されていった。ここに住む私たちですら、ともすると震災前の町並みを忘れがちだ。
しかし今、なんのことはない町並みの裏に、多くの人の命と暮らしがはりついたままになっている。想像力を働かせて、今の町並みから、そこにあった暮らしを見つめてほしい。
左の写真は、私の家のごく近くの風景である。なんのこともないように見えるがこの一角がどのように変動したのか説明する。
中央の薄茶色のビルは無事だった。このビルが残っているおかげで、この一角が見渡せるほど壊滅したことがわかりにくくなっているが、注意深くみれば感じることができる。
まず右一番手前の駐車場は、4・5階建てのビルだったところだ。私の「生きてます」シリーズにも出てくるこのビルは、2名の人を地下室に残したまま1階がくずれていた。救出は3日後になった。建物はずいぶん長い間そのままになっていたが、たしか6月ころから取り壊しが始まり、後は駐車場になった。
その向こう、茶色のビルと駐車場にはさまれた場所はトタン壁の町工場の倉庫だった。建物は到壊し、やはりその後は駐車場と資材置き場になっている。
薄茶色のビルの向こう側は、2棟の2階建て木造アパートになっていた。向かって左にあったアパートは倒壊し、壁土や木材が左側の道路の真ん中まで散乱していた。
ビルのかげになってまったく見えないが、右側にあったやはり2階建てのアパートは、倒壊こそしなかったが、南東方向(写真では右奥が南である)に30度近く傾いていて、近寄るのがためらわれる状態だった。これらの建物は解体され、更地になった。その後、建物は建っていない。
薄茶色のビルの南側、右手の方向にはやはりビルがあったが、倒壊している。右端に小型のパワーシャベルが見えるが、おそらくここも駐車場になるんじゃないかと思う。
ちなみに、パワーシャベルの上に薄青色の阪神高速神戸線が見える。もちろん、これもまだ機能していない。
くどいが、もう一度だけ、書かせていただく。これらの失われた建物には、それぞれの暮らしと生活がかかっていた。今の町並みは、一人一人のかけがえのない暮らしと生活が奪い去られた、失われた町並みなんだ。
すっかり有名になってしまった菅原市場。援助物資などもある程度はたしかに集まった。でも、これほど注目されはしたが、客が帰ってこれず、経営は困難だ。というより、私にはこのままでは経営が成り立つ見込みはない、と感じる。
一人暮しの老人が自炊するために、わずかづつの野菜や魚が買える、50円と100円硬貨の区別もあやしくなった人でも、店の人に助けてもらいながら買い物できる。文字が読めなくても店の人に聞きながら買い物ができる。長田の南部にさまざまな人々が集まってきたのは、こうした市場がいわば政治の力など到底およばない「福祉」を実現していたからだと私は思う。
さらにつっこんだ話をすると、老人にとって、自分で買い物をすることはきわめて大きな意味を持つ。自分で買い物をしていた人が、老人ホームに入れられてしまうと、おどろくほどすぐにホケが始まることがある。自分の意志で行動すること、自分の裁量で行動を決めること、金という緊張感のあるものを扱うこと、友達と話をすることなど、市場で買い物をすることはボケないためのエッセンスが詰まっていた。
こうした市場を、この国や神戸市はどうみているのだろうか。スーパーやコンビニさえあれば市場などいらない。商売人がまだいるからやらせているだけ...私にはそう思っているようにしか見えない。神戸市の中で高齢者の比率が高いこの長田では、市の行う福祉ではなく、市場の行ってきたような「福祉」こそが人々を守ってきたのに。
市場の人々は私財をなげうって、人々が帰ってくるのを待っている。しかし、まちづくりの方針は定まらず、家は建たず、人々は戻ってこれない。
これは、震災前から建設されていた神戸市住宅供給公社の住宅である。「特定優良賃貸住宅」というらしい。私たちは「タカいシジュウ」(高い市営住宅の意)と呼んでいる。
これらの住宅は、3LDK。家賃は14万前後だが、補助により9万〜11万程度になる。
この住宅はJR兵庫駅前にドデンと建っているので、私は毎日通勤時に見ることになる。正直、さまざまな複雑な想いがあるのだが、どうも論理的に文章に書けない。はっきりしているのは、もっと安く入れる住宅が、必要だということ。
ちなみに、屋上に逆台形の部分があるのだが、これがどう見てもヘリポートにしか見えない。なんでそんなものがあるの?