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Visual 生きてます38


★西菅原市場タイムトリップ

西菅原市場入り口'65

 西菅原市場の入り口のところだ。たぶん、1965年ごろだと思われる。
 うしろに見えるジュースの自動販売機を懐かしく思い出す人もいるだろう。合成着色料バリバリのオレンジ色のジュースがプラスチックのドーム内になぜか噴水になっている。紙コップは、自動で出てくるのではなく、自分でとなりの筒から引っこ抜いてセットするのだ。(右に筒が見えている)
 当時はこのジュースも贅沢品で、僕たちはめったに飲むことはなかった。

 やはり、1960年代の西菅原市場の我が家だった魚屋である。当時の普通の市場の様子といっていいだろう。夕方などは、なかなか前に進まないほどお客さんでいっぱいだったものだ。

 店先のアップ。
 並んでいるものが素晴らしい。現在の感覚からいえば、こんな豪華な魚屋はめずらしいだろう。車海老もみごとだし、今ではめったに入荷しないサイズのあわびがゴロゴロしている。当時はまぐろのトロも、現在のように変に珍重されることなく、リーズナブルな価格だったはずだ。

 これは1970年ごろ。菅原一帯は、木造二階建てが多く、その上の物干し台から見渡すとまさに「甍の波」だった。これはちょうど西の方向をとっており、左側には国鉄の高架が見えた。そこを蒸気機関車が走るのを見た記憶もある。
 左にみえる白い建物は菅原の交差点のガソリンスタンドの建物だ。この写真に写っている建物で、現存するのは、このガソリンスタンドの建物だけだ。それ以外は、多くはあの1.17に焼失・倒壊した。


 96年8月10日の西菅原市場付近。多くの土地にはなにもない。なにもない。バラックの店舗で市場であったことが分かる。
 西菅原市場は戦後、元からあった菅原市場に加え新しくできた市場だ。最初は新菅原市場といっていたが、だんだん「新」しくなくなってきたので、なぜか「西」になった。実は南であって西ではないのだが。たぶん、語呂が悪いからだろう。
 このあたり一帯は、水島さんという方の土地だった。平和ゴムや平和台自動車学校のオーナーでもある方だ。何年もかかって、西菅原市場の人々は、その方から土地を買っていったのだ。
 西神戸のチェーンスーパーのマルアイも、もともとこの西菅原市場の堀青果店からスタートした。
 いずれもその一代で商売を始めた人ばかりだった。


★みずが夏まつり


 御蔵・菅原地域のお祭りとして「みすが夏まつり」がボランティアの方々の力で開かれた。「日本3大七夕まつり」の仙台(宮城)・尾張一宮(愛知)・平塚(神奈川)と古川(宮城)・福岡(福岡)の様々な七夕飾りが壮大に飾られていた。

 マスコミ各社も来ていたので、関西ではTV等で見た方もいらっしゃるだろう。

 私がラムネ(昔ながらのガラス瓶のラムネで、このメーカーもたしか神戸にあるのだ)を飲みながら休んでいると、NHKの3人組み(インタビュアー+カメラマン+雑用)が通りすがりの女性に取材をしていた。西神の仮設にいる人で、この祭りを見に出てきたという。そばにいた4歳くらいの子どもが、NHKの人を怖いといって激しく泣き出した。インタビュアーがさかんに謝って去っていった。
 どうして、その4歳の子どもが怖がっているのか、たぶん、ちゃんと取材をすれば分かることだろうと私は思う。ここにいる一人一人に、それぞれ壮絶なドラマがあることをあのインタビュアーは分かっているのだろうか。しかし、取材すれば、それがおいそれと報道できないことに、愕然とするかも知れないが。





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