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生きてます 全集(最新)

パソコン通信Nifty serveのFACTIVEやPC-VANの
第三世界ネットワーキングにアップした報告の記録です。

目次


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生きてます。24 <とーち>

(16)  95/12/25 05:47

★イブ 長田。
 クリスマスイブの今日、長田六間道は派手なクリスマスソングも流れず、静かに時が流れている。建物自体はほぼ大丈夫そうだが、いくつかの店はいまも開くことはない。新長田駅近くのジョイプラザ周りと比べると大正筋以南は明らかに人が集まりにくくなっている。

 もう十何年、クリスマスケーキは六間のはずれのケーキ屋さんで買うことになっていた。つれあいが小学生のとき、そこの主人は店を持ち、ずっと前から軒先を借りるように商売をしていたのを知っていたつれあいは、やっと店を持てたんだね、と密かに祝福したという。
 しばらくそこにいっていないので、店を再開しているかも知れない。クリスマスが近づくとあのおっちゃん、がまんできひんで。そういって、私たちはおとづれたが、やはり店は開いてなかった。

 大正筋の仮設店舗とでもいうべきパラールでは、さらに店が拡張されていた。私にはたいへん大きな意味をもつ味噌屋さんも新たに再開していた。今日はとても寒かった。今年の本格的な冬が始まったことを告げていた。私は洋品屋で、マフラーを買った。かねてから通勤用のマフラーが要ると感じていたのだが、買うきっかけがなかった。大正筋でマフラーを買う。それは私にとって大きなきっかけだ。
 崩れ落ちた日常を取り戻そうと私たちは日々を流している。店の方がなんども礼をいう。へんなことを言わないように、去る。がんばって、なんていいたくない。私たちに必要なのは日常だ。同情でもかがやかしい復興でもない。日常だ。

 ありがとう。ウールのマフラーで私は明日から暖かく通勤できる。
 この町に、メリークリスマス。
<とーち>

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生きてます。25 <とーち>

(16)  95/12/28 00:49 254へのコメント

色々考えたけど、やはり、生きてます。を再開する。

★阪神高速神戸線のこと
 私の住む、東尻池のあたりの阪神高速もどんどん修理が進んでいる。
最初のころ、やはり道路ができないと復興にも差し支えるかなぁ、などと少しは思っていたのだが、最近そうは思わなくなった。この高速については、いろいろ「いちゃもん」がある。

「姫路にいくんやけど、どのくらいかかるかなぁ。えっ、神戸ってまだ高速通ってへんの?なんでぇ、復興したんちゃうん。不便やなぁ。」
大阪でもこういう会話がけっこうある。リクツじゃなく、そのたびに冷静ではいられなくなる自分がしんどかったりする。

 結局、高速道路は、今の神戸のためのものではないと思う。神戸のためならば、とにかく今、できるだけ太い道路があったほうがよく、そのためには4車線ある2号線が復帰することの方がはるかに神戸の役に立ったはずだ。

 私の住んでいるあたりでは、現在、高速の工事のために、もともと4車線あった2号線は片道2車線になっている。工事はかなりむつかしいらしく延々、といった感じで進んでいる。素人目にはどのあたりまで進んでいるのか検討もつかない。もし、高速の建設を諦めてすべて道路にしてしまえば、片道5車線はとれる。しかも、実績として撤去はかなり早く行えていたから、そういう方針が固まっていれば、5〜6月ごろには片道5車線の道路が開通していたはずだ。
 神戸にとって、こちらの方がどれだけ助かったか、渋滞を経験した人ならばわかるはずだ。

 高速の工事も、ちょっと解せない。私がウォッチした限りでは、工事は以下のような手順になっている。
1・地震のため柱は樽型に膨らんでいた。素人目にもまったく使い物にならない。
2・柱はそのままにして、鉄骨を組み合わせて、柱を覆うように高速道路を支える柱を建てていった。これは余震による倒壊を防ぐためと思われる。
3・柱をカバーで覆い、その中でなにやら工事していた。それが終わると柱はきれいになっていた。鉄骨の支柱は一部はずされた。
4・高速道路部分を取り払い、柱を一から作成し直していく。そのあと、道路をまた持ってきて乗せるつもりのようだ。

 3と4の間には3ヶ月くらいの期間が開いている。これはどうも、3の段階では道路を乗っけたままの修理で再開するつもりだったのが、やはりそれでは問題があることが分かったので、本格的に修理し直していった、のではないかと思える。

 現在、高速の道路部分がないために2号線界隈は、うそのように明るくて気持ちがいい。高速のために、2号線界隈は太陽の陽がさえぎられ、車の音は高速の床に反射してうるさく、空気もよどんでいるように思ったものだ。それが今は、車が少ないせいもあるのか、青空が見え、風が通り抜け、ろくに陽をあびることもなかった街路樹も生き生きとして見える。
 そういえば、子どもの頃は、このあたりはこんなに明るかったんだ、と記憶をたどっていた。そういえば、湊川インターの降り口にある喫茶店が、最後まで用地買収に応じずしかたなく、ギリギリのところを高速が通っていると、小学生のときに父に聞かされた。今はいない父だが、土地を渡さなかった喫茶店のことを否定的にいわなかったことを、ふと思い出した。

 私たちには、高速を再建するかどうかを選択するチャンスはなかった。湾岸に高速を作る計画もあるそうだから、私は、2号線の高速は撤去し湾岸線を建設して欲しかった。ポートタワーのあたりでもそうだが、神戸は2号線の暗さのために、港湾部と都市部が分断されているような感覚があったのだ。
 高速道路の安全性についても、不安なままだ。あの派手に倒壊した部分だけに問題があったのではない、のきなみあの太い柱の一部が樽状にはじけていたのだ。今、工事しているのは、それに耐えられるようになっているというのだろうか。

★風呂釜と銭湯
 風呂釜が壊れてしばらく銭湯にいった。震災以来(とはいうものの4月1日までガスはこないままだったが)だったが、当時がうそのように空いた銭湯でゆっくりと反芻するように、あのころを思い出していた。
 そういえば風呂釜も、どうも地震の後の解体や2号線の工事のほこりや塵で壊れたように思う。もともと火が付きにくい釜だったけど。

 あのとき、銭湯は本当にカッコよかった。井戸水を供給し、風呂を再開し、フル回転だった。銭湯があって、花いぢりができる路地があって、低廉な長屋に住む。それが私が好きな「長田の福祉」だった。つくづく、年寄りに生きやすい町だったと思う。

<とーち>

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生きてます。26<とーち>

(16)  95/12/29 12:10 254へのコメント

★写真のこと
 地震後、私は写真をまったく撮らなかった。長田区南部の被災者が自分で写真を撮ることはほぼなかったのだろうと思う。ほとんどの人にとって、写真どころではなかったし、カメラもなかった。
 しかし、私の場合、今から考えれば3日後くらいには、写真を撮ることは可能になっていた。が、撮ろうとはまったく思わなかった。建物にも、そして人々には、とても、カメラを向けることは申し訳なくて、とても、できなかった。
 しかし、スクリーンセーバを作る段になって困った。不思議なもので、同じような写真でもやはり自分で撮ったものは違う。これは、どういう時で、向こうに写っているのがなんで、このあとどうなったか、など、すべて説明できるわけなのだから、写真の持つ意義は、ほかの人が撮ったものとは違うのだ。

 スクリーンセーバで見て欲しかったのは、そういう背景のある写真だ。写真を通してその背後に流れる地震前の日常という過去から、きわめて困難な未来までを貫く見せかたがしたかったのだ。

 前回のメッセージで書いた高速道路の樽状に歪んだ柱も、私は何本も見ているのだが、報道写真ではあまりお目にかからない。どうしても派手な倒壊現場に目が向けられるため、倒壊したところ以外は若干の補修で直るように思われてしまうことになる。(この点、似たような建造物ではあるがJRの高架とは状況がまったくことなる。長いスパンで考えると土地の利用効率だけのために道路を二階建てにしようというのは愚かなことなのだろうか。)

 延々、柱が樽状にはじけている様は、写真にとっておきたかった。しかし、そう思っている今でも、あの時に帰ればやはりカメラを手にとることはないだろうと思える。

★スクリーンセーバのこと
 「阪神・淡路大震災スクリーンセーバ 長田からの声」(WINDOWS用)を公表してから約1ヶ月が経った。いく人かの方からは好意的なメールをいただいた。伝えたいことは、もっとあるのだが、時間とともに伝えかたが難しいことが多くなってくる。ああいった形でも、伝えていけたらと思っている。
 ネットワークス/NetWorks(アスキー)という雑誌の12月26日発売2月号のCD−ROMに、私のスクリーンセーバが掲載されている。本のなかにも200本のオンラインソフトと共に紹介されている。
 ダウンロードするのがめんどくさかった方(2400bpsだと40分くらいかかる大きさだったの(^^;))、すでにネットワークスを買ってる方は、ぜひこれを機会にみて欲しい。

<とーち>

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生きてます。27<とーち>

★「生きてます」のログ全集
 これまでの「生きてます」の1〜23までのログをまとめて「全集 第一集」として登録しました。
 当時と今とでは状況が異なり、あのときの私のメッセージを読まれていないかたもいらっしゃるので、できましたら一度、通して読んでみてください。

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      大震災関連ログ「生きてます」全集 とーち

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   (大震災記録 生きてます。全集 第一集 <とーち>)

★パーマ屋と散髪屋
 昨年、つれあいがパーマ屋さんにいったところ、「おせち料理は作るか」と聞かれたそうです。母と共同ではありますが、いちおう作るので、そのように伝えたところ、100人くらい聞いたけど、7人目や、といわれたそうだ。
 年を越すといっても、正直、おめでとうなんてとてもいえないし、平年どおりの正月の準備をする気にもならなかった。
 もともと神社仏閣には興味がないほうだが、結局、今年は初詣にもえべっさんにもいかずじまいだった。正月番組の下らなさには辟易した。
 年が明けてから散髪にいった。2年くらい前からいきだした散髪屋だ。それ以前には、台湾人の人がしている散髪屋にいっていたのだが、(あそこは安くてよかった)一世らしいその人の散髪屋は、だんだん開いている日が少なくなり、みかけはそのままだけど、とうとう私の髪が肩にとどくまで開かなかった。
 先日いったのは、それからいきだした散髪屋さんだが、今回の地震で倒壊していた。その後、テントで営業していたのだが、ここんとこ、工事中だった元の場所にだんだんと建物ができだしていた。
 年末にいくと、すでに建物はできて、元どおり、営業を再開していた。でも、満員だったので年が明けてからいくことにした。正月だからといって、髪をきれいにしようなどという感覚は私にはないので。
 ほんとうに、感心するのだが、人は元どおりにしようとするものだ。散髪屋さんの待ち合い椅子、パーティションの人形棚の人形、はさみホルダーの位置、鏡の具合、ほとんどのものは新品なのに、おどろくほど前のままだ。それは、ここに住む人々が欲しているものがなにか、はっきりと示している。しかし、それさえも区画整理にかかっていない幸運によるものなのだ。
 正月はどこか行きましたか?
 いえ、どこも
 そうやねぇ、まだとてもそんな気になれへんよねぇ
 私の予想に反して年が明けても込んでいた。今年の正月は、多くの人にとって、髪をきれいにしてから迎えるものではなかったようだ。

<とーち>

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